Teddy : 本名 小野 哲 

 

1965年 福岡(博多)に生まれる。父も母も福岡出身。
父は商社。母は先生。ゆえに母方・父方の両親の家にあづけられ、

大家族の温かみを知る。

 

おじいちゃんやおばあちゃんに甘やかされて育ったことから、

やんちゃすぎる坊主に育ちつつあったことに危険を感じて、

3歳の時に母は中学の先生をやめ専業主婦に。

母のキャリアを大きくゆがめてしまう。

 

ここから厳しいしつけがはじまる。

スリッパやハンガーが飛び交う家庭に変わりはてる。

 

博多から門司に移り住み、 田ノ浦幼稚園。
5才 父の転勤に伴い横浜 桜木町に転居。

当時の桜木町といえば、静かで駅前運河では、船虫と戯れ、塩の香りを楽しんでいた。横浜スタジアムもまだ横浜公園で砂場でよく磁石遊びをしていた。

歴史ある本町小学校に入学。スクールゾーンの桜木町駅地下のゲームセンターといものに人生初めて足を踏み入れたとたんに警察官に補導される。

これが、トラウマになり、一切ゲームはやっていない。

女性との駆け引きゲームは大好きなのだが。。。

 

小学3年 戸塚区汲沢町に転居。汲沢小学校。
小学5年 学校分割。葛野小学校へ。キャプテンとしてミニバスに熱中。

学校が終わると一旦家に帰り、体育着でドリブルをしながら体育館に直行。

16時〜19時まで毎日練習付けの日々を送る。

神奈川県のミニバスの聖地である戸塚区でNO.1チームの4番でキャプテンをつとめ、

NO.1ガードとして活躍。数々の大会で優勝。

第一回さわやか杯優勝(コカコーラボトラーズ主催)。

 

学級委員長、生徒会、キャプテンと強いリーダーシップ力を養う。
この頃、父に連れられ、外国人がたくさんいる花見やパーティーに参加。大人の中に一人子供が混じり、外国人のホスピタリティーに触れその暖かさに憧れを覚え、その体験がその後の生き方に大きな影響を及ぼすことなる。日本人とは全く接し方のちがう外国人を不思議に思い、訳もわからず外国人のまねをしていた。


汲沢中学入学。
中学2年 横浜市緑区へ転居。田奈中学へ。転校が多かったことが幸いし、誰とでもすぐに打ち解ける術を修得。また、中学3年の夏休み39日間家族でカリフォルニアのロングビーチへ。両親のマンション近くのモーテルに兄弟だけで宿泊。

様々な文化背景をもつ外国人と接することで、ショックをうけた体験をもつ。

高校受験の時、机のマットには、2つの好きな言葉があった。
『我以外、皆我が師なり』『Don't waste the time』

 

神奈川県立横浜翠嵐高校入学。自由闊達な校風で個性的な友人たちと
楽しい高校生活を送る。バドミントン部に所属、初心者ながらOB達の愛ある指導に触れ、インターハイを目指す。インターハイは、あと一歩のところで届かず、しかし神奈川県で3人で構成する国体選抜に選出される。

過去にも私以降も、初心者で国体選手は現れていない。

この頃は、女性の気持ちが全く解らずモテなかった。

一年浪人経験あり。

早稲田大学法学部。というよりテニスの同好会である早大テニスクラブ(WTC)に所属。毎年新入生が100人入る関東最大のサークルでテニスに熱中。

2年から試合メンバーとして関東団体戦優勝にも貢献。

 

また、大学4年を通して、慶應義塾大学医学部の嘱託職員として医療事務に従事。

24時間体制の急患の窓口で受付から薬価計算、会計、入院事務をこなす。

この時たくさんの方の「死」や病気の方に接することで、

「健康な自分ができないことがあるとしたら、それは全て自分の努力不足だ」と悟る。石原裕次郎や夏目雅子の死にも遭遇。当時は、パニックになるほどの大ニュース。
父の子育て方針で、大学3年と4年の学費は自分で支払う。

 

学生の頃からレストランが大好きで、クリスマスに西麻布の「ひらまつ亭」に行き、

ドキドキ緊張しているところをマダムの柔らかい接客、

かつ大人に混ざって一流レストランでこどもの自分たちが楽しめように

配慮してくれたことに感激を覚える。それも現在に繋がる体験。

 

異性との付き合いは、ほぼ大学デビューといえる。

真っ赤な「トレノ」を乗り回して、いつも誰かを乗せていたところから

「寂しがりやのトレノ君」などと呼ばれる。

大学時代は、少しはモテるようになったのかな〜。

株式会社 富士銀行(現みずほ銀行)恵比寿支店に入社。

どの分野で生きていったらいいのかわからなかったため、銀行の看板でさまざまな経営者と話すことができるだろうというのが動機。

 

1988年とバブル時期で、総合職の同期だけで500人。同期会では、今でも100人近く集まる大切な仲間。恵比寿支店からはじまり、関西の支店、関西国際空港オープンプロジェクト、官公庁渉外、融資外為、法人営業、債権回収など多岐に渡る分野を経験。

2002年 レストランをオープンするという夢を実現するために退社。1ヶ月かけて世界のレストランを食べまわる。

シェフという人間を理解するために無給で皿洗いを1ヶ月経験し修行開始。

西麻布のCITABRIA (現在は、同場所にレフェルヴェゾンスあり)

にて トイレ掃除からスタート。

トップウェイターまで上り詰める間に、

「おもてなしの精神=ホスピタリティ」、「空間プロデュース」、

「レストランマネージメント」や「ウェディングサービス」を習得。

レストランマネージメント会社を設立。

シドニーヒルトンホテルのメインダイニング「 Glass Brasseri 」のシェフ

Luke Mangan とパートナーシップ契約を結び

2006年 三軒茶屋に 「Test Kitchen 」オープン。

2007年4月新丸ビルオープン時に、モダンオーストラリア料理レストラン「Salt」

ワインバー「W.W」オープン。 モダンオーストラリア料理という言葉の名付け親。

その後、レストランのコンサルタント、ウェディングサービスコンサルタントなど

「ホスピタリティの伝道者」として活躍。

現在「大使公邸 御用達サービス人」の顔も併せ持つ。


2012年3月17日 高校時代以来の恩師が他界。

自分の生きていく意味をゼロから考え直す。

 

2012年6月17日 頭を丸め「坊主」に。

恩師が「東急電鉄」の専務であり、その影響もあり自分が住んでいる代官山とい街に責任を持ち、何か自分ができることはないだろうかと思案。

 

「代官山手伝人 Teddy」 として、代官山の街づくりのお手伝いを開始。
代官山に「Teddy」を浸透するにはどうしたらいいか?

パーソナル ブランディングの一環として、5ヶ月間 朝8:00~10:30まで

「裸足」で歩き回る。お金のかからない 足つぼマッサージ 笑!

 

代官山駅の周辺を中心にして、「タバコ拾い」「ゴミ拾い」も行い、

地域の美化にも力を注ぐ。

 

いつしか「裸足のTeddy」と街のみんなから呼ばれるようになり 今に至る。

自分が関わることで、化学反応を起こし、人がキラキラ輝いて

人生が楽しくなり 笑顔でいられるお手伝いをすることが自分自身の幸せ。

「触媒人間」という意味合いから「カタルシスト」として活動中。